バラにまつわる物語を紹介します。
メアリー・ローズ物語
イギリスのバラの育種家デビッド・オースチン氏作出のイングリッシュローズに「メアリー・ローズ」という名前の付いたバラがあります。
デビッド・オースチン・ロージズ社によると、
ヘンリー8世の旗艦がソーレント水道から400年以上を経て引き揚げられたことにちなむ品種名です。
デビッド・オースチン・ロージズ メアリー・ローズ より
旗艦とは、艦隊の司令長官・司令官が乗りマストに司令官の官階相当の旗を掲げる軍艦のことです。
ヘンリー8世の旗艦とは、いったいどんなものだったのでしょうか。
なぜ、海に沈むことになったのでしょうか。
中世イングランドの歴史を、ほんの少し紐解いてみることにしましょう。
ヘンリー8世について
ヘンリー8世(1491~1547 在位1509~1547)はチューダー朝の2代目の王です。
ランカスター家とヨーク家の争いが起こしたバラ戦争(1455-1485)の後、ヘンリー8世の父であるヘンリー7世が築いた王朝です。
ヘンリー8世は、1509年に18歳の若さで即位し、父の後を継いで絶対王政を確立しました。
国王支配下における国教会を創立してローマ・カトリック教会から離脱したことや、6人もの女性と結婚したことなどでも有名で、シェイクスピアの史劇の主人公としても取り上げられています。
ヘンリー8世の娘のひとりが、大英帝国繁栄の基礎を築いたといわれているエリザベス1世です。
旗艦 メアリー・ローズ
15世紀から16世紀にかけての欧州は、宗教改革と大航海時代の真っ只中にあり、覇権争いに明け暮れる激動の時を過ごしていました。
そんな中、イングランドとフランスの関係は、英仏百年戦争(1337-1453)がジャンヌ・ダルクの幕引きでとりあえず終結したものの、依然として更なる覇権をめぐって一進一退の攻防を続けていました。
ライト兄弟が飛行機を飛ばすまで400年もの歳月を待たねばならないこの頃、島国イングランドにとって戦いに最も重要なのは船でした。
ヘンリー8世は、フランスの脅威に対抗するために軍艦の建造を命令します。
最新式の大砲を装備した軍艦を持つことは、王にとって権力と富の象徴ともなりました。
メアリー・ローズは1509-1511年にかけてポーツマスで建造されました。
メアリー・ローズの名は、ヘンリー8世の最も可愛がっていた妹の名「メアリー」と、チューダー朝のシンボルである「バラ」にちなんで付けられたといわれています。
メアリー・ローズに備え付けられた大砲類は大変威力を発揮して次々とフランス軍の船にダメージを与え、メアリー・ローズの旗艦としての評価は高まっていきました。
艦隊司令官もメアリー・ローズの素晴らしさを称える手紙を王に送ったほどでした。
1528年、メアリー・ローズに大掛かりな改装が行われました。
それによってより多くの大砲やその他の武器、兵士や乗組員を乗せることができるようになりました。
メアリー・ローズの最期
1545年7月、フランス軍はソーレント海峡に集結していました。
迎え撃つイングランド軍もポーツマス港から多くの船を出港させました。
もちろんメアリー・ローズも防戦に駆けつけました。
7月19日未明、戦闘中のメアリー・ローズが突然傾き始め、そして、海に沈みました。
フランス軍はメアリー・ローズを撃沈したと喜びました。
しかし、事実はそうではないようです。
沈没の原因には諸説があります。
その中の有力な説は以下のようです。
”メアリー・ローズは風を受けて傾き、その時に船の下部に開かれた大砲の発射口から船内に水が入り沈没した”
改装した船の構造に問題があったのかなかったのか。
乗組員の操縦ミスがあったのかなかったのか。
どちらにしても、メアリー・ローズは敵に撃墜されたのではなく、どうやらアクシデントで沈んだものと思われます。
そして、この沈没で700人もの犠牲者を出したと伝えられています。
多数の犠牲者を出した主な原因は、白兵戦防止用に張ってあったネットが乗組員が沈み行く船から逃げ出すのを妨げたためだと言われています。
しかし、この事故の後もイングランド海軍は隆盛を極め、1588年には無敵艦隊といわれたスペイン軍をも打ち破り、大英帝国を築き上げる大きな原動力となりました。
引き揚げられた旗艦
沈没後メアリーローズを引き揚げる試みはなされましたが、当時の技術力では海底から船を引き揚げることはできず、やがてその正確な位置さえも忘れられていきました。
1970年代から再び捜索が行われ、ソナーシステムでの海底探査により、メアリー・ローズの位置を特定し、潜水による考古学調査も行われました。
そして1982年10月11日、メアリー・ローズはソーレント海峡の海底から引き上げられました。
デビッド・オースチン氏のバラ「メアリー・ローズ」の作出は、その翌年の1983年です。
参考文献
○デビッド・オースチンのイングリッシュローズ 産調出版
○BBC site :The Mary Rose : A Great Ship of King Henry VIII
○The Mary Rose(http://www.maryrose.org/)
アンネのバラ物語
「アンネの日記」をご存知ですか?
第二次世界大戦中ナチス・ドイツの大虐殺(ホロコースト)により亡くなったユダヤ人少女アンネ・フランクの日記を、アンネの父オットー・フランクさんが出版し世界的ベストセラーになったものです。
では、アンネ・フランクの名前が付いたバラがあることはご存知でしょうか。
そして、そのバラが日本と深いかかわりがあることを。
ここでは、『「アンネ・フランクのバラ」アンネの意思を受け継いだ人びと』という本を元に、アンネのバラにまつわるエピソードを紹介します。
アンネのバラが最初に日本にやってきたのは1972年です。
その前年の1971年に、日本とイスラエルの文化交流のために合唱団がイスラエルを訪問しました。(「アンネ・フランクのバラ」の本の編著者は聖イエス会の方です。)
合唱団の方々は、イスラエルのレストランで偶然アンネの父オットー・フランクさんに出会います。
「アンネの日記」のことはもちろん合唱団の方々も知っていましたので、その時から合唱団の方々とオットー・フランクさんとの交流が始まりました。
そして1年後にはオットー・フランクさんの好意によりアンネのバラ10株が日本に送られました。
アンネのバラは正式な名前を「Souvenir d’Anne Frank」といい「アンネ・フランクの形見」と訳されています。
輸送事情の悪さから苗木の到着までに1ヶ月もかかってしまい、10株のうち9株が枯れ、1株だけが合唱団の一員で聖イエス会の創設者でもある大槻さんの庭に根付きました。
この1株がアンネのバラと日本を結びつける最初の1本となりました。
アンネのバラはその後、大槻さんと「アンネの日記」を読んだ学生たちの交流からその存在が広く知られるようになりました。
「私達もアンネのバラを育ててみたい!」という学生たちの希望を受け、オットー・フランクさんは更に10株のバラ苗を日本に送りました。
この苗を園芸家や学生たちが接木をして増やしていった結果、現在では日本中でアンネのバラが栽培されるようになりました。
平和学習、国際理解学習としてアンネ・フランクを取り上げた学生たちの多くが学校でアンネのバラを栽培しています。
検索サイトなどで「アンネのバラ」をキーワードに検索してみると、各学校が「アンネの日記」を研究し”アンネ・フランクの形見”と名付けられたバラを大切にしている様子を知ることができます。
1980年4月、兵庫県西宮市にアンネのバラの教会が完成しました。
教会の方の説明によると、この教会はアンネやオットー・フランクさんとの友情を記念し、アンネのバラ園を造り、アンネに関する本や資料を集めて保存し、若い人々にアンネの理想を持たせる、という趣旨で設立されたそうです。
教会の写真を見ると、アンネの像の周りをぐるっとアンネのバラが取り囲んでいます。
アンネのバラは色の変化するバラですから、まるで赤や黄の色とりどりのバラに囲まれているように華やかです。
アンネ・フランク資料館館長高橋数樹さんのアンネのバラの紹介文を抜粋してみましょう。
普通、バラの花は蕾が少し開いた状態が一番美しいものです。しかし、アンネのバラは、開花後も変色し、日々色が変わるので、見る者を最後まで楽しませてくれます。そして散り方は実に潔いのです。
アンネ・フランク資料館館長高橋数樹さんのアンネのバラの紹介文
アンネのバラの花は、美しく変化する性質を持っています。蕾の時は赤色、開花するとオレンジ色に黄色がかったいわゆる黄金色で、さらに時間の経過とともに日差しを浴びて、花弁の先から次第にサーモンピンクに変色し、さらに濃く変色して赤色に近くなります。色の変化は寒暖の差が激しいほど鮮やかで冴えます。
なんて魅力的なバラなのでしょう!
ところで、そもそもアンネのバラはいつ、どのようにして作られたのでしょうか。
アンネのバラの元になるバラは、ベルギーの園芸家ヒッポリテ・デルフォルヘさん(1905~1970)の手によって1955年に作出されました。
ヒッポリテさんと息子のビルフリートさんは、1959年にオットー・フランクさんと出会い、アンネのために彼らが持っていた最も美しい種類のバラの一つを捧げることにしました。
そのバラは1960年「Souvenir d’Anne Frank」(日本語訳はアンネ・フランクの形見 、アンネの思い出、アンネのバラ)という名前で発表されました。
そしてそれをオットー・フランクさんが日本の合唱団に送ってくださったというわけです。
新種のバラは育種家(園芸家)の手でいろいろなバラを交配させて生み出されます。
アンネのバラの親になったのはレーヴ・ド・カプリ(Reve de Capri)というバラとシャントクレア(Shanteclerc)というバラです。
レーヴ・ド・カプリの親はプレジデント・ハーバート・フーヴァー。
アメリカ合衆国の第31代大統領の名前を頂いています。
フーヴァー大統領が就任したのは1929年。
アンネ・フランクの生まれた年です。
シャントクレアの親はピース。
1945年ベルリン陥落(アンネたちユダヤ人を迫害したナチス・ドイツの敗北を意味します)を記念して名付けられたバラです。
偶然とはいえ、アンネのバラの祖父母にあたる二種のバラは、アンネに少なからず関連を持つ、と高橋さん(前述)はおっしゃっています。
どこかの学校で、教会で、資料館で、バラ園で、アンネのバラを見かけたら、なぜアンネ・フランクの形見という名前が付けられたのか、なぜそのバラが日本に咲いているのか、バラの後ろに広がる背景を思い起こしていただければ幸いです。
参考文献
○『「アンネ・フランクのバラ」アンネの意思を受け継いだ人びと』 出版文化社