職場の近くで工事があって、去年工事の途中で発掘調査が行われていました。
2023年10月の写真を再掲します。
発掘調査が終わり、工事が再開し、この度建物の完成に近づきました。
どこかの会社の事務所だか倉庫だか、私にはひとつも面白くない建物ではありますが、最近敷地の角に立て札が立ったのを発見しました。
「品川台場(第五)の石垣石」
こういうものは著作物ではなく資料やデータの開示なのではないかと思うので、内容を転機します。
お勉強になるので読んでみてください。
品川台場はペリー来航後の1853年(嘉永6)に江戸幕府により江戸湾品川沖に築かれた西洋式の砲台場として再来航に向け11基が計画され建設が着工されました。
形は外洋に向かって開く五角形の平面形で、1年4ヶ月の間に6基もの砲台場が築かれ、その一部がこの敷地内から発見されました。
ペリー来航なんて歴史の教科書に書いてあること、学校で習う歴史です。
でも、2024年ー1853年=171年。
90歳の人と80歳の人がいたらもう170年ですよ。
大化の改新の遠い遠い歴史感とは違い、つい「この間」のことだと思いませんか。
171年前に黒船がやって来て、仰天した幕府が慌てて海に砲台を作ったということです。
砲台のある場所、台場、それがお台場です。
当時の西洋の築城技術を取り入れて、江戸湾の海上防衛の要として建設され、東京湾を守る重要な役割を果たしていました。
幕府が直面していた国際的な危機感と、それに対応するための技術的・工学的な挑戦の一端を示しています。
一文の中に江戸湾と東京湾が出てくるのが気になるところではありますが、それはともかく・・・
品川からペリー艦隊が見えたのでしょうか。
眼の前のレインボーブリッジとテレビ朝日のビルの隙間から見える小さくなってしまった海をぼんやり眺めましたが、この景色から江戸を想像するには脳内にたっぷりのCGが必要です。
石垣石には「◯に・」や「九」などの記号の他、「九曜紋」等の家紋などの刻印が確認されました。
九曜紋は近世初頭に江戸城や外堀普請に用いられた東伊豆の石丁場(石切り場)の一部を管理していた熊本藩細川家の家紋です。
江戸の初めに築かれた石垣と同じ石丁場の石が、幕末の国難により再び用いられていたことが明らかとなりました。
ペリー艦隊を見て大慌てで作るわけですから、材料も技術も、当然実績のあるところに発注するでしょう。
とは言え、幕末は江戸城普請からだいぶ時間が経っているので、細川家でも昔の資料を調べたりして大騒ぎだったのではないでしょうか?
今回出土した品川台場(第五)の一部は山砂水締めにより埋没保存を行い、この建物の下に今も存在しています。ここに展示している石垣石は、江戸末期から続く日本の防衛の歴史を今に伝えています。
埋没保存というのがあるのですね。
ここで検索大手の「ウィキペディア」を見てみました。
1962年(昭和37年):第五台場が新しく完成した埋立地(港区品川埠頭・現在の港区港南)に埋没して消滅する。
(ウィキペディア【お台場】より)
と書いてありました。
1962年に埋没したものが、2023年に工事によって浮上し、2024年に再び埋没したことになります。
今建てられたビルが壊される未来まで三度目を見ることはないでしょう。
貴重な瞬間を、私は垣間見たのかもしれません。
なんだか楽しくなってきました。
コメント
とても貴重な写真ですね。
周りの人に「見て見て〜」と見せびらかしました。
見た人のおおかたの反応は、「残せば良いのに」でした。
どこかの何かの遺跡(←あやふやな記憶)では、地下に展示室という形で残した…なんてネット記事を最近見ました。それは稀有な例。
日本がやりがちなのは、水に流すか蓋をする。
これは蓋ですね。
ロズレさんのおかげで、期間限定の貴重なものを見ることができました。^^
最初に埋め立てたときも、なるべく壊さないように埋めたのでしょう。
今回も、とても近代的な6階建てのビルでぴっちりと蓋をされてしまいました。
土地の権利やらの大人の事情でしょうか^^;
埋めるにしても、工期もかなり遅れたし手続きも面倒だったでしょうねぇ^^;;;
東京湾に流すよりはマシだったと思うしかありません。
ちょっと掘ったら即遺跡のローマの苦労が偲ばれます。。。